片桐清治・哲父子顕彰碑建立
2007年10月13日(土)、同志社校友会岩手支部と同志社同窓会岩手支部会員らでつくる片桐清治・哲父子(注1)顕彰会(遠藤治夫会長)により、顕彰碑の建立・除幕式が奥州市水沢区山崎公園で行われ、続いて近隣の翠明荘に場所を移し、記念式典・記念講演・懇親会が開催された。
除幕式と記念式典には岩手支部会員や片桐父子のご遺族、相原正明奥州市市長、千葉政幸金ヶ崎町副町長、また大谷實同志社総長、野本真也同理事長、秋田まち子同校友会会長、坂本清音同同窓会会長をはじめ約60名が出席した。
顕彰碑は高さ150センチ、幅45センチ、厚さ20センチの柱状で、花崗岩製。表面には父子の肖像をかたどった青銅製レリーフと、哲が信条とした「信仰、希望、愛」の文字、業績を刻んだ金属板が埋め込まれている。
顕彰碑は花巻市出身で埼玉県在住の彫刻家・伊藤馨一さんが約3ヵ月かけて製作。山崎公園脇を流れる乙女川を背に、同水沢区出身の神学者で清治の盟友だった山崎為徳(注2)の隣に建てられた。
注1 片桐清治、哲
清治は1856(安政3)年、現在の奥州市水沢区新小路に生まれ、同志社英学校(現同志社大)で学んだ。同大創立者・新島襄の命を受け、帰郷後の85(明治18)年、水沢教会を設立。初代牧師として東北でのキリスト教伝道の礎を築いた。東華学校(仙台・校長は新島襄)の幹事でもあった。
哲は1888(明治21)年、清治の二男として同区大手町に生まれた。同志社大を経て米国留学後、同大教授。旧約聖書研究の第一人者として活躍し1933年に同志社女子専門学校長、50年から53年まで同志社女子大学長を務めた。戦時下の思想統制に屈せず、キリスト教精神に基づいた教育を貫いた。
注2 山崎為徳
1857(安政4)年、奥州市水沢区に生まれ、熊本洋学校を経て開成学校(東京大学の前身)に入学するが1877(明治10)年、同志社英学校に転校する。同志社では新島襄の信頼をうけ、在学中から後進の教育にたずさわった。卒業後は同校教員としてキリスト教神学研究のほか、文学、演劇、近代史などに多才を発揮し、将来を嘱望されながら、24才の若さで病気で亡くなった。(高橋光男著『山崎為徳の生涯』参照)